【コラム】「ゴッド・オブ・ウォー」新作「ラウフェイ」は設定こそ興味深いが、ゲームデザインは既視感が否めない
それでも傑作になってほしい
本稿はライターのティム・ブリンクホフによるIGN USのコラム記事だ。彼は20年にわたって「ゴッド・オブ・ウォー」シリーズをプレイしてきた。2018年のリブート作については傑作だと考えている一方、『ゴッド・オブ・ウォー ラグナロク』についてはそれほど高く評価していない。
私にとって『God of War Laufey』(以下、ラウフェイ)の初公開映像に対する反応は複雑なものだった。もっとも、その理由は主人公がクレイトスではなくフェイだからではない。むしろ私はその設定を気に入っている。
異なる神話体系の神々が存在する死後の世界をフェイが旅するというアイデアは面白く、可能性に満ちている。私が勝手に予想していた「アトレウスが何らかの理由でエジプトへ行く続編」よりも遥かに魅力的だ。その意味では、『ゴッド・オブ・ウォー』(2018)が初めて発表されたときと似た感覚を覚えている。まったく予想していなかった。それでいて、シリーズを前進させる方法として、これ以上に独創的なものも思い浮かばない。
一方で、それ以外の部分については判断が難しい。「ラウフェイ」の設定には2018年のリブートが持っていた革新性が宿っている。しかし公開されたゲームプレイ映像から受けた印象は、「ラグナロク」を遊んでいたときと同じ冷めた感覚に近かった。
結局はクレイトスの物語?
リブート作で新鮮だった要素の数々が、「ラグナロク」では次第に定型化し、刺激を失っていった。「ラウフェイ」が成功するためには、最初の北欧編が何を正しく行ったのかを思い出し、そして2作目がどこで躓いたのかを学ぶ必要がある。
ネット上で見かけた批判の中で最も簡単に退けられるのは、フェイの外見に関するものだ。そうした意見は本当の意味での批評ではないし、ゲームの品質とも何の関係もない。しかし「クレイトスを操作できない」という不満については、もう少し真面目に向き合う価値がある。というのも、その主張にはシリーズ自身の歴史が関わっているからだ。
2018年のリブート開発初期、ディレクターのコーリー・バルロクと開発チームは、一時的に新主人公の導入を検討していた。しかし最終的に彼らは、クレイトスこそがシリーズの中心であり、彼のいない作品は『ゴッド・オブ・ウォー』ではないという結論に辿りつた。
もっとも、「ラウフェイ」がそのルールを破る最初の作品というわけではない。『ゴッド・オブ・ウォー ラグナロク』には、アトレウスを操作する長いパートが存在しており、これは賛否両論だった。私は個人的に、クレイトスの重く鈍重な戦闘から離れ、より軽快なアトレウスの戦闘へ切り替わることを歓迎していた。そのことを理由に「シリーズの根幹が失われた」と非難する声はほとんどなかった。そもそも、クレイトスはプレイアブルでなくとも物語の中心であり続けることができる。「ラウフェイ」もまさにそうなりそうだ。
現時点の情報を見る限り、本作はフェイが死後の世界から夫と息子の旅路を支えようとする物語になるらしい。しかも彼ら本人には知られない形で。初公開映像では、クレイトスがフェイの前に姿を現す場面すら確認できる。あるRedditユーザーの言葉を借りれば、「主人公じゃなくても、結局これはクレイトスの物語なんだ」ということになる。
マーベルのような脚本になってしまわないか、心配だ
もうひとつ耳を傾ける価値のある批判がある。それは脚本の質についてだ。多くの人が本作のライティングをマーベル映画になぞらえている。ここで言うのはSIEサンタモニカスタジオの政治的思想に関する根拠のない批判ではない。そうではなく、頻繁に挿入される皮肉交じりの軽口や、妙にコミカルなやり取りが、シリアスなドラマや激しいアクションと噛み合っていないという具体的な指摘だ。
2018年のリブートにも確かにマーベル的な要素は存在した。しかし、クレイトスとアトレウスの親子関係が物語の中心だったため、それらが前面に出すぎることはなかった。「ラグナロク」は違う。登場人物が増えた結果、キャラクター同士の掛け合いはまるで「アベンジャーズ/エンドゲーム」のようなノリになっていた。
最初の北欧編には個人的な物語を語ろうとする意志が感じられた。それに対し「ラグナロク」は、多くのハリウッド大作映画と同じく、委員会方式で作られた作品のように感じられた。物語は各ステージやイベントを繋ぐための後付けに近く、ゲーム全体の土台にはなっていなかったのである。
「ラウフェイ」がどちらへ寄るのかはまだ分からない。北欧編全体と結びついた大きな物語の構想を見る限り、より親密で目的意識のある作品になりそうだ。しかし正直に言えば、今回公開された新キャラクターたちに、見た目以上の魅力はまだ感じられない。

もし今回見た内容が完成版に近いのだとしたら、フェイとセクメト、ベグツェの出会いは、クレイトスがトールやオーディン、特にバルドルと初めて対峙したときほど興味深いものではなかった。どうか彼らがメインヴィランではありませんように。そしてフェイが、クレイトスによって倒されたギリシャ神話や北欧神話の神々とも出会いますように。
喋る立方体と、既視感のある冒険
そのほかの新キャラクターについて言えば、しゃべる立方体のフランクと、しゃべるリボンのルーは、しゃべる首のミーミルに続く、実に奇妙で「ゴッド・オブ・ウォー」らしい存在だ。
彼らの正体が何なのか――メタトロン・キューブなのか、エクスカリバーなのか、それとも別の何かなのか――については、すでにファンの間で様々な憶測が飛び交っている。その意味では確かに興味を引かれる。だが一方で、彼らとフェイの会話はあまりにも無難だ。例えば立方体がフェイに向かって「集中しろ。お前はここにいる。今ここにいるんだ」と語りかける場面がある。正直なところ、私はその時点ですでに眠くなっていた。
少なくとも私にとって、「ラウフェイ」最大の問題は、すでに「ラグナロク」をクリアする遥か前から飽き始めていたデザインテンプレートに、あまりにも忠実に従っているように見えることだ。
まだ断定するには早い。だが、SIEサンタモニカスタジオには、自分たちの歴史を思い出してほしい。ギリシャ編が行き詰まり、2018年のリブートが成功した理由は何だったのか。それは、長年使い続けたお決まりのフォーマットを捨てる勇気があったからだ。
2018年の『ゴッド・オブ・ウォー』を遊んでいたとき、私は本当に旅をしている気分だった。次の角を曲がった先に何が待っているのか分からなかった。それが楽しかった。
一方、「ラグナロク」はそうではなかった。巨大で豪華なテーマパークだった。だが、そのアトラクションは何百回も乗ったことがあるものばかりだった。規模は大きい。しかし驚きはない。
「ラウフェイ」で訪れることになる「常世の國(あらゆる時代が交差する死後世界)」は、本来ならギリシャ編から北欧編へ移行した時と同じくらい衝撃的であるべきだ。だが今のところ、見た目もプレイ感覚も「ラグナロク」から大きく変わっていないように見える。
見慣れたゲームデザインのせいで、主人公フェイが感じているであろう戸惑いや異世界感を、私は共有できなかった。もちろん、こうした不満が現実的ではないことも理解している。今のゲーム開発は昔とは比べものにならないほど時間がかかる。そしてお金もかかる。ソニーほどの巨大企業であっても、作品ごとに完全新規でエンジンやシステムを作り直すことは不可能だ。アセットやシステムを流用するのは当然である。
それでもSIEサンタモニカスタジオほど優秀な開発チームならば、ゲームデザインがプレイヤーの感情へどれほど大きな影響を与えるかを理解しているはずだ。経営上の制約があるとしても、その中で最大限の工夫をしてほしい。少なくとも、今回公開された映像を見る限り、私は彼らがそこまで到達できているとはまだ思えなかった。
「ラグナロク」が果たせなかった役割
とはいえ、私は悲観しているわけではない。むしろ希望はある。「ラウフェイ」は新シリーズの始まりだと言われている。だが私にとって本作の本当の価値は、「ラグナロク」がやり残した仕事を引き継ぐことにある。

周知の通り、北欧編は当初三部作になる予定だった。しかし現代の開発期間はあまりにも長くなりすぎた。そのため早い段階で、三部作は二部作へと縮小されることが決定された。そして私は、その決断が「ラグナロク」のあらゆる部分に悪影響を与えたと思っている。特に再プレイすると強く感じる。「ラグナロク」は壮大な結末そのものではなく、その結末へ向かうための準備編のような印象を受けてしまう。
だからこそ「ラウフェイ」には欠けていた最後のピースを埋めてほしい。例えば、オーディンが執拗に追い求めていた謎の仮面。セクメトがフェイと出会った際、囚人の手のひらから破片を引き抜きながら、それを示唆するような発言をしている。あの仮面が最終的に何だったのか。本作なら語ることができるかもしれない。
それだけではない。理想を言えば、「ラウフェイ」は「ラグナロク」の結末そのものを再解釈し、より強い意味を与えることすらできる。壮大さという意味でも。感情的なカタルシスという意味でも。正直なところ、クレイトスとトールの戦いは、2018年におけるクレイトスとバルドルの初戦ほどの衝撃を与えてはくれなかった。
考えてみれば、これは極めて自然な流れだ。2018年の「ゴッド・オブ・ウォー」は、本質的には喪失を経験した家族の物語だった。だが「ラグナロク」では、その中心軸が数多くの出来事の中へ埋もれてしまった。「ラウフェイ」は、その北欧編を再び原点へ引き戻せる。

すべての始まりだったフェイの死へ、あえて立ち戻るのだ。一部の批判者が言うような、「開発者が政治的な理由でクレイトスを排除し、女性主人公を押し付けようとしている」という話ではない。少なくとも私にはそうは見えない。むしろこれは、シリーズを前進させるうえで最も自然で、最も理にかなった選択だと思う。
問題はただひとつ。紙の上では非常に魅力的に見えるこのアイデアが、実際のゲームとしても同じくらい魅力的なものになるかどうかだ。もちろん、傑作になることを願っている。